それでも人生にイエスと言う ④

 それでも人生にイエスと言う

「以下引用」

世界全体は無意味か、それとも意味を超えているか

 けれども終わりにのぞんで忘れてならないことがあります。意味ということを根源的に問うならば、もうひとつの問い方もできるのです。もうひとつの考え方もあるのです。つまり、意味の問題は、世界全体の意味の問題でもあります。とくに、私たちの身に起こり、私たちが出くわし、受けるいわれがなくても避けられない運命の意味の問題でもあります。運命は、操縦できません。私たちが影響を与えることのできないもの、本質的に私たちの意志の力の及ばないもののことを運命というからです。たしかに、さきほど確認したように、生きる意味は、すくなからず、外面的な運命に対してどのような態度をとるか、もはや運命を形成することができないとき、またはじめから変えられないとき、どうふるまうかにこそあります。とはいっても、ここでさらに問題にしなければならないことがあります。この正真正銘の運命それ自体に、そしてその運命だけではなく、さらにこの世界の出来事全体にに意味があるとは考えられないでしょうか。
 大きくいって二つの考え方の可能性があると思います。どちらの可能性も反芻できないし、証明もできません。つまり、すべては結局まったく無意味だとも十分主張できます。おなじように、すべてに大きな意味があるばかりか、そのような全体の意味、そのような意味の全体がもはや捉えきれないほど、「世界は超意味をもつ」〔世界は意味を超えている〕としかいえないほど意味があるのだとも主張できるでしょう。そう、世界はまったく無意味だというのも、世界のすべてが有意味だというのも、おなじく正当な主張です。ただし、おなじく正当というのは、論理的におなじく正当、不正当ということです。じじつ、ここで直面するような決定は、もう論理的な決定ではけっしてありません。論理的には、両者はおなじように支持されるでしょう。論理的には、二つの考え方の可能性は、考え方の正当な可能性なのです。
 まったくの無意味か、すべてが有意味かという決断は、論理的に考えると、根拠がない決断です。その決断には根拠はなにもありません。いい換えると、根拠がなにもないということが、決断の根拠になるのです。この決断を下すとき、私たちは、無の深淵にさしかけられて宙吊りになっています。けれども、この決断を下すと同時に、私たちは超意味の〔意味を超えた〕地平にいるのです。人間は、もう論理的な法則からこの決断を下すことができません。ただ自分自身の存在の深みから、その決断を下すことができるのです。どちらを選ぶかを決断することができるのです。
 ただ一つのことははっきりしています。究極の意味、存在の超意味を信じようと決断すると、その創造的な結果があらわれてくるでしょう。信じるということはいつもそうなのです。信じるというのは、ただ、「それが」真実だと信じるということではありません。それ以上、ずっとそれ以上です。信じることを、真実のことにするのです。というわけで、一方の考え方の可能性を手に入れるということは、たんに一つの考え方の可能性を選ぶことではないのです。たんに考え方の可能性にすぎないものを実現することなのです。

【『それでも人生にイエスと言う』 V・E・フランクル〈松田美佳訳〉(1993年、春秋社)】

 難しい。

 が、自分なりにフランクルの文章を、力の限り咀嚼してみることにする。

 先ず私の考えでは、この世界には、人間の人生には、「意味」がある。これはフランクルも書いている通り、論理的な根拠に基づいたものではなく、私の個人的な決断である。

 根拠のない個人的な思いである以上、それが正しいか正しくないかを論理的に考察することすら出来ない。もしかしたら、この世界も、人間の人生もたんなる偶然の産物に過ぎず意味など無いのかも知れないが、「私はそうは思わない。人生には意味があるのだ」ということを無条件に信じているのだ。

 フランクルの言う「超意味」の意味するところを、私はどうしても理解出来ない。無意味だとか有意味だとかを超えた地平、とは一体どのような世界の捉え方なのだろうか。
 もうちょっと、私のように無学な者にでも、歯が立つように噛み砕いて書いて欲しいものだ。ハッキリ言って、全然判らない。

 また、フランクルの言う「信じる」も、私には非常に難しく感じられる。
 フランクルの書いている文章では、「信じていること」を、「真実のこと」にするための「強引な盲信」もここには含まれてしまうように感じるのだ。
「単に考え方の可能性にすぎないものを実現する」という働きかけは、それが正しい方向に向かえば(正しい、正しくないの定義も非常に難しい問題ではあるが)良いが、自分の信じたことに執着して強引に既成事実を作り上げようとするような場合は強力に危険だ。

 うーん、難しい。どれだけ噛み続けても飲み込むことが出来ず、私の細い顎は既にクタクタ状態である。
 更に告白すれば、私の書いた上記文章は、歴史に名を残すフランクルに、何だか一方的に無意味な難癖を付けているようで心苦しい。

 今回、フランクルの文章を自分なりに咀嚼しようと試みたが、どうやら私の歯は全て折れて抜け落ちてしまったようだ。次の歯が生え揃うまで、時間による考察の熟成を信じてみることにしよう。

 それまでは、兎に角、人生に意味のあることを信じ、考え方の可能性にしか過ぎなかった「意味のある人生」を実現するために奮闘していくことにする。
 

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それでも人生にイエスと言う ③

 それでも人生にイエスと言う

「以下引用」
 不治だと考えられていて完治した精神病患者の例

 まず第一に問題になるのは、不治の精神病患者ということであり、その患者から、無意味で無価値で「生きる価値がない」生命を奪う権利です。ですから、まず、「不治」とはどういうことかを問題にしなければならないでしょう。専門家ではない皆さんにとって手におえないわかりにくい説明をするかわりに、私自身が体験した具体的なひとつのケースをご紹介するにとどめたいと思います。ある精神病院にひとりの若い男性が入院していました。その男性は、いわゆる制止状態にありました。まる五年間のあいだ一言も発せず、自発的に食事も取ろうともしなかったので、人工的に、鼻から通したチューブで栄養を与えなければなりませんでした。来る日も来る日もベッドのなかだったので、脚の筋肉組織はとうとう萎えてしまいました。私はしばしば医学部学生を病院に案内しましたが、そのようなときにこの症例を示していたとしたら、きっと、学生のだれかが、よくあるように、私に尋ねたことでしょう。「正直におっしゃっていただけませんか、先生。このような人間は殺害してしまったほうがよくないでしょうか」。

 さて、のちに起こったことが、その答えになったことでしょう。ある日、この患者さんは、さしたる理由もなく、ベッドの中で身を起こしたのです。そして、ふつうのやりかたで食事をとりたいと看護人に求めたのです。また、歩く練習をはじめるためにベッドから引っ張り出してほしいと頼んだのです。それ以外の点でも、まったく正常に、彼の状態でできるかぎりふつうにふるまっていました。だんだん脚の筋肉も力を取り戻しはじめ、患者さんが「完治して退院」できるまで、ほんの数週間しかかかりませんでした。それからすぐ、またもとの職場で働きはじめたばかりか、ウィーンのある市民大学で講義をはじめました。しかも、以前に出かけて、すばらしく美しい写真を何枚も持ち帰った外国旅行や登山について講義したのです。

 あるとき彼は、精神医学の専門家たちが集まる小さなうちわだけの集まりでも話してくれました。病院にいた五年間の極限状態での内面生活について講演するよう、私が招待したのです。

 さて、その講演で彼は、当時のいろいろな興味深い体験をくわしく話してくれました。精神医学でよくいわれる外面的な「動きの乏しさ」のかげに当時隠されていた心の豊かさを垣間見せてくれただけではありません。「裏舞台の」出来事のたくさんの興味深い詳細も垣間見せてくれました。それは、それほど良心的ではない医者、回診のときにしか姿を見せない医者には予想もできないような出来事だったのです。患者さんは、何年もたっているのに、ちょっとした出来事でもおぼえていました。―まことに気の毒ながら、患者さんがなおって覚えていることを明かすだろうとはたぶんまったく考えなかったと思われる一人二人の看護人のことも、です。

【『それでも人生にイエスと言う』 V・E・フランクル〈松田美佳訳〉(1993年、春秋社)】

 上に示されたような事例がなければ、医学生の無神経で浅薄な発言(今回の場面では仮定の質問ではあるが)に答えられないフランクルではあるまい。だからと言って私は、この問いが簡単に答えられる類のものだというつもりは無い。

 ともあれ、フランクルの綴った若い男性の事例は、貴重な事実であることには違いない。

 このフランクルの文章が、同じようなケースにいる人々を少しでも勇気づけられるように、無駄な私の言葉は付け足さず紹介するだけにとどめる。

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それでも人生にイエスと言う ②

 それでも人生にイエスと言う

 V・E・フランクルがこの本に書いていることは、私には非常に難しくて判りにくい。正直、歯が立たない部分もある。じっくりと、何度も咀嚼するように読んでいきたい。

 フランクルは、強制収容所という地獄を生き延びたことによって、常人には決して身につけられない透徹した眼をつかみ取った。

 フランクルの到達した人生観・人間観を、私はほんの少しでもいいから知りたい。

「以下引用」

 このように、病気になっても、生きる意味がなくなるということはけっしてありません。それだけではありません。そればかりか、病気になって、なにかが得られることもあります。あの可能性を明らかにするために、強制収容所で起こった出来事についてお話ししたいと思います。あるとき、私は、強制収容所で、以前から知っていた若い女性といっしょになりました。収容所で再会したとき、彼女はみじめな境遇にあり、重い病気で死にかかっていました。そして自分でもそれを知っていました。けれども、死ぬ数日前に、こう明かしてくれました。「私は、ここに来ることになって、運命に感謝しています。以前なに不自由のない生活を送っていたとき、たしかに、文学についていろいろと野心を抱いてはいましたが、どこか真剣になりきれないところがありました。でも、いまはどんなことがあってもしあわせです。いまはすべてが真剣になりました。それに、ほんとうの自分を確かめることができます、そうしないではいられないのです」。

 こう言ったとき、彼女は、私が以前に知っていたときよりもはればれとしていました。彼女は、そのとき、リルケがあらゆる人に求め、望んだことができたのです。つまり、「死を自分のものにできること」に成功したのです。いいかえると、死までも全生涯の意味に組み入れ、死によってさえ生きる意味を実現することがほんとうにできたのです。

【『それでも人生にイエスと言う』 V・E・フランクル〈松田美佳訳〉(1993年、春秋社)】

 どの人生にも必ず「死」という終止符は打たれる。時が来れば私も必ず死ぬ。言葉の上では充分にそのことを理解しているつもりだ。しかし、実感として「死」を捉えられないために、私はあたかも人生が永遠に続くかのような日々の過ごし方をしてしまう。

 ぬるま湯の蛙である。

 私に足りないのは「必死さ」だ。

 強制収容所で重い病気で死にかかっている若い女性が、「どんなことがあってもしあわせ」と感じた事の意味を考えてみる。

 状況を想像して欲しい。ナチスによって作られた強制収容所の絶望は、平和を生きる私たちの思い描く地獄を遙かに凌駕しているものだ。そこでは被収容者達は、単なる数字以下の存在だった。

 強制収容所の真実を知りたい方には、フランクルの著書、『夜と霧』を一読することを強くお勧めする。

 本物の地獄の底で自分の死が差し迫っていることを知った時、彼女は本当の意味で自分の人生の尊さを実感したのではないか。どんな苦しみがあろうと、どんな悲しみがあろうと、どんな痛みがあろうと、「生きる」ということの輝きを損なうことなど出来はしないのだ、と。

 実感が本物であったからこそ、彼女はフランクルの知る以前のどんなときよりも晴れ晴れとして見えたのだ。

 私たちは必ず死ぬ。

 そうであるならば、「死」を無意識の中に閉じこめてはならない。「死」を意識の中に立ち上がらせて日々を生きるのだ。

 かけがえのない自身の人生を真に生き切るために、人生に決して後悔を残さないために、「死」までも全生涯の意味に組み入れなければならない。そして私たちは今日より、このことを実感する以前のどんな時よりも、「晴れ晴れと輝いて」生き抜いていくのだ。

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それでも人生にイエスと言う ①

 それでも人生にイエスと言う

 著者のヴィクトール・E・フランクルは、第二次世界大戦中、ナチスによって強制収容所に送られたユダヤ人医師である。本物の地獄を生き延びた医師フランクルの書いた、『夜と霧』は世界中で大ベストセラーとなった。

 今後は、この書物、『それでも人生にイエスと言う』を数回に分けて読んでいこうと思う。

「以下引用」

 けれども、もうここ数十年の経済秩序のなかで、労働する人間はたいてい、たんなる手段にされてしまいました。自分の尊厳を奪われて、経済活動の単なる手段にされてしまいました。もはや、労働が目的のための手段に、生きていく手段に、生きる糧になっているということですらありませんでした。むしろ、人間とその生、その生きる力、その労働力が経済活動という目的のための手段になっていたのです。

 それから第二次世界大戦が始まりました。いまや、人間とその生命が、死のために役立てられるまでになったのです。そして、強制収容所が建設されました。収容所では、死刑の判決を下された人間の生命さえも、最後のひとときにいたるまで徹底的に利用されたのです。それにしても、生命の価値はなんと低く見られたことでしょうか。人間はどれほどその尊厳を奪われ、おとしめられたことでしょうか。

【『それでも人生にイエスと言う』 V・E・フランクル〈松田美佳訳〉(1993年、春秋社)】

 21世紀を迎えた今も変わらず、人間は手段にされ続けている。

 経済効率という名のもとに、「問答無用なリストラ」という差別が社会的に容認されている事実も、人間が手段とされている事の一つの証明である。

 熾烈な自由競争の中で生き延びていくために、「苦渋の決断をした」という資本家のポーズを信じてはならない。そのポーズは、暴動を起こさせないための、偽善者の自己正当化に過ぎない。

 彼らブルジョワジーは、合理的判断で冷酷な決断を下しただけだ。

 彼らから見れば人間は、労働力を得るための単なる機械・歯車の一つなのだ。

 あくまでも労働は、人間が生きる糧を得るための手段である。

 あくまでも労働は、人間がより良く生きるための手段である。

 労働は手段であって目的ではない。

 どんな理由があろうと「人間」を「手段」として見た瞬間に、その人物は自らの尊厳さえ踏みにじっているのだ。

 私は会社経営に携わったことがないので、リストラ以外の選択肢の可能性はどうなのだ、といった専門的な議論には踏み込んでいくことは出来ない。
 しかし、リストラされた人々の生活を思うと、「苦渋」などとという言葉は誤魔化し以外のなにものでもないのではないかと思うのである。

 彼らは、人間を「労働力」という「ゲージ」のみで測定して、情け容赦なく切り捨てたのだ。

 おう、それもよかろう。雲の上に暮らすブルジョワのお前らは、気張ってお前らの道を征くが良い。

 リストラされた方達よ、苦しいし悔しいだろうが歯を食いしばるしか道はない。怒りをバネにして価値を創造していくしか道はない。仕事は焦らずに探せばきっと見つかる。立ちはだかる壁は高いかも知れない。しかし、前に進むしかない。

 私にはこんな言葉しか見つけられない。

 年齢や状況がのしかかり潰れそうになっている方々、それでも兎に角、命ある限り生き続けて欲しい。

 強制収容所を生き延びたフランクルは、「それでも人生にイエス」と言った。

 

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